2013年4月5日金曜日

405の一言 易は万物の変化を捉えるもの

易学というと、単なる占い、八卦見、と思っているかも知れんな。

それは表面的なものの見方だな。もちろん、そうしたな、表面的な占い師もおるな。

だがな、易というのは、宇宙・人生の神髄・本質を把握したものだぞ。それは万物は変わるものだ、という本質だな。そこの中で、法則があるんだな。

万物が変わる中、自ずから変わらざる法則があるぞ。その法則は何か?陰陽だな。その法則を把握して、変化に耐えていく。変化に対応していく。だから、「易」というんだぞ。

面白いもので、漢字というのは、そうした陰陽、変化を表したものでもあるんだな。そこをみていくと、ちょっと観方が変わるぞ。

例えばな、「大」という文字からみていくとな、


人は手足を拡げて大々としているかというのを示したのが「大」だぞ。

で、そんなふうにな、大々としていられるのは、何のお陰か?

何の力によって生活出来るかという「よる」という字は「因る」という文字になるぞ。

それは親のお蔭である、師のお蔭である、と気づく時にその我々の心を「恩」という訳だな。

だから、「恩を知る」ことは、われわれは、いかに存在するか、どういう在り様なのか、という根本に帰る心でもあるぞ。

「親のお蔭」「師のお蔭」「誰かのお蔭」。「お蔭、お蔭の「げ」で生きる」と言われるようにな、「誰々のお蔭だった、と気づく心」を持っている人は、「恩を知る」人。

だから、恩を知らない人は、そういう「誰々のお蔭で自分がある、ということに気づかない人」なんだな。

気づかんわけだからな、そういうのは、鈍感かもしれんな、自己中心かもしれん。でもそういう人は、恩を受けたことをわからんし、恩を与えた人も、そういう人には離れていくからな。

恩を知らない人は、だんだんと人から離れていってな、基盤のない浮遊した人間になっていくぞ。

孤立、孤独になっていってしまうとな、それじゃあ悲しいな。だからまた、「恩を知る」という徳目は最も大切な根本のものだ、ということが言われていたわけだな。

そういうのも、易学だぞ。わかり易いようで、奥が深いものだな。



0 件のコメント:

コメントを投稿